村上 隆「どこでもドア これからの人生」 2022 シルクスクリーン
将棋界では新年の幕開けを告げる「王将戦」が始まりました。タイトルホルダーは藤井聡太王将、挑戦者は永瀬拓矢九段(肩書はいずれも当時)。
ここ数年、「観る将」と呼ばれる鑑賞を楽しむ将棋ファンが増えています。コンピュータゲームの実況配信を「観る専門」の人たちがいるように、将棋もプレイ(指す)をしなくても娯楽として浸透し、決してルールを知らなくては楽しめないもの、ではなくなりつつあります。
その背景として、YouTubeやAbemaTVなど動画配信サービスによるチャンネルの間口が広がったこと。棋士の指し姿だけでなく人となりを魅せる企画が増え、棋士自身に愛着を持つようになったこと。そしてこれが大きい理由だと思うのですが、AIによる形勢の予測手の提示が、鑑賞者へのハードルをぐっと下げることに繋がったことが挙げられます。
将棋におけるAI導入は、見る者にひとつ指針を与えてくれました。
これまでの将棋番組では、棋士が次の手を指すまでの途方もなく長い時間の間、モニター画面に映る景色に変化はなく、放送事故かと疑うほどの静止画が続いていました。
今では、勝率を表すインジケーターが揺れるたび(何億手先を予想し、最善手を弾き出していることが念頭によぎり)、棋士が深く思考の海に潜っていることが想像できます。
たった1手で形成が逆転となった時は、ドラマティックな展開の成り行きを一緒に味わうことができた気にさせてくれます。
さて、そんなAIの行く末を見据えたかのように、藤井王将のインタビューで大変興味深いものがありました。100年後の将棋がどうなっているか尋ねられ語ったものです。
”将棋は100年後完全に解析されている可能性はあるが、将棋としての面白さが失われてしまうということではないと思う。新しい指し方が生まれているかもしれない、期待したい”
藤井王将は、例え将棋が解析されても、そこで将棋が終わるわけではない、楽しみは終わらないと言っているのだと思います。 例えば、コンピューターゲームは、あらかじめ設計されているゴールに向かっていくものですが、クリアするまでの過程を楽しむものですよね。一方通行ではない、無数のルートを探す旅のようにです。
クリスト「Wrapped Fountain, Spoleto, Italy, 1968」 2002 リトグラフ
さて、さらに興味深いのは、今回の王将戦の挑戦者でもある永瀬九段のインタビューです。前述の藤井王将の話を受けて語ったものではないと思うのですが、ある意味AIの数値に翻弄される者への警鐘と捉えることができる内容です。
永瀬九段は、将棋の戦型である「角換わり」*が2024年に自分を含む一部のトップ棋士の間で確立されたようだと語りました。その上で今後どういった戦型にしていくか、おのおのがどう加工していくか、次の段階にきていると言っています。
これは決して角換わりが”解析された”と言っているのではなく、これまで積み重ねてきたものが集約され2024年に一つ形となったものが、どんな展開をみせるのか次のステージに進んだところに”今、自分たちがいる”ということを感度高く意識している発言ですね。
さらに、彼は「解説者のレベルアップを求める」とも言っています。
解説は、これも棋士が役割を担っているのですが、AIがなかったころは解説者の言葉が戦局を伝える唯一の道標だったわけです。
最近ではあまり聞かれなくなったように感じますが、「どちら持ちですか?」という質問があります。聞き手が解説者にこう尋ねると「この対局をもし解説者が引き受けるならどちらを選ぶか、つまりどちらを優勢と考えているか」が問われていて、その返答によって勝負の成り行きを知り得たわけです。
「解説者のレベルアップ」要求は、永瀬九段が”今、いる”ステージで行っている非常に高度な次元のやりとりを視聴者に伝えられるのは、AIではなく同じ棋士でもある解説者にしかなしえないのではないか、というAI警鐘の意味合いと、解説者、視聴者への発破かけでもあるのでしょう。
AIはあくまで指標であり、ただの数値である。実はAIは何も表現してない、何の価値もないのかもしれない。そんなことを突きつけられているような気がしてきます。
将棋は「棋譜」を残します。
どんなにずば抜けて強い者がいたとしても、棋譜は一人で残せるものではありません。将棋ゲームのルール〈相手と交互に指すこと〉に乗っ取り行われ、指し手二人の物語が盤上には生まれます。
さて、100年後、芸術の未来はどうなっているでしょう。
ゲームのようにゴールが設定されているのものではありませんので、仮定の話としてですが、いくつかの明確なルール、例えば写実絵画のようにリアルに描くことや「誰々みたいな」「何々ふうな」作品を完全に模倣することなどをゴールにみなすならば、解析が完全に成功する場合もあるでしょう。
解析されたその先を各々がどう捉えるのか。
数学問題の場合、一度解いた問題の別解を探る者がいるように、解くこと自体をゴールだと考えない者はいます。藤井王将のように解析されたその先を期待して、楽しみたいと考えることができるでしょうか。
また、もしも芸術が”解明”される日がくるとして、
芸術家は制作活動を止めると思いますか?
芸術家はなぜ制作をするのか、
その問いに芸術の本質があるように思えます。
* 角換わり--- 序盤に角交換をする相居飛車の戦型
text: tomiko mabuchi
本コラムは、2025年1月13日付のニュースレターにて配信いたしました。
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