門坂 流《小鳥の羽》 2004 エングレービング
今年5月に公開されたAppleの新iPad Proのコマーシャル動画「Crush!」が物議をかもしましたね。
巨大なプレス機がギターやトランペット、カメラ、ゲームキャラクター、3D化した絵文字などを押し潰し、それらがあたかも凝縮されiPadとなって出現する演出に一部から批判が集まりました。
押し潰される様が破壊的と捉えられた結果です。
Appleは後日「的を外していた」と謝罪声明を出します。
プレスされたのは、クリエイターにとってかけがえのない道具です。
CMの演出が誰にどういった心象を与えたかの議論は、個々の判断に委ねるとして、ここではクリエイター、特にアーティストに的をしぼって、プレスの対象となった「道具」について考えます。
多くのアーティストにとって、制作手法ともいえる道具は重要です。
プレス機が登場したので、版画を例にとってみましょう。
版画は木版画(凸版画)、銅版画(凹版画)、石版画(平版画)、シルクスクリーン(孔版画)の4種類に分類されます。
この中から銅版画をとりあげます。
銅版画の技法には直接技法であるエングレーヴィング、ドライポイント、メゾチント、
間接技法であるエッチング、アクアチント、ソフトグランド・エッチング等があります。
では、さらにこの中から”メゾチント”にクローズアップして必要な道具を挙げてみます。
メゾチントは、主に名画の複製手段として17世紀中頃にドイツで考案されイギリスで普及しました。
フランス語でマニエール・ノワール(黒の技法/様式)と呼ばれるこの技法は、まず銅版に無数の傷をつけ、ささくれを作ることから始まります。ささくれだった部分を削ったり磨いたりした版面に、インクをつめることで、黒から白の間の明暗の調子を出すことを可能とします。
銅版にささくれを作る(=目立てをする)ために「ベルソー(ロッカー)」と呼ばれる道具が必要となります。櫛状に並んだ刃を持つこの道具が、メゾチント特有の黒のマチエールを生み出します。
「20世紀銅版画の巨匠」と呼ばれる長谷川潔(1891-1980)は、メゾチントに魅せられた作家の一人です。
メゾチントを再興したことで今日知られています。
今でこそベルソーは画材屋で手に入りますが、写真技術の発達によりメゾチント技法が忘れられていく中、当時の長谷川が道具を入手するのは困難なことでした。古い技法書を読み、自身で道具を作り、試行錯誤を重ねる中、とうとう1922年にイギリスからベルソー入手が叶います。
その時の長谷川の心中はいかがなものだったか。
初めてこの道具を手にした時、創作への期待や可能性を感じたであろうことは想像に難くありません。
門坂 流《カール(猫)》 2008 エングレービング
さて、目立ては「ベルソー」がなくても、別の道具でも代用できます。
例えばカッターでもナイフでも目立てはできます。
銅版画のパイオニアである駒井哲郎(1920-1976)もナイフで目立てたメゾチント作品を制作しています。
長谷川が表現したコントラストのはっきりした黒とも違った、隙間のある柔らかい黒が魅力です。
要するに使う人の創意工夫で、名称は異なっていても目立てをする為の道具を作り出すことは可能です。
目立ては根気と労力がいりますが、軽減するために目立て専用の機械に任せる場合もあります。
アーティストは、古くからある道具と新しい技術を取り入れた道具を手にして表現に磨きをかけます。
iPad Proコマーシャル動画の最後では、プレス機に潰された道具が色とりどりのペンキとなって吐き出されました。
これは選択肢の多いツールボックス出現のメタファーでしょうか。 色んな道具の要素を取り込んで、これであなたは何を描くの?と投げかけると同時にiPad Proもまたツールの一つに過ぎないことを表しているようです。
さて、画家のデビッド・ホックニーは近年iPadを使った絵画制作をしています。
版画、絵画、写真、映像など多くの制作手法を試してきたホックニーは、2010年に手に入れたiPadで日記をつけるように描きはじめます。
絵画制作に比べドローイングには時間をかけず、制作数も多い(*)という画家が、その特性を活かせるツールとして選び取ったのでしょう。 iPadで描かれたから、その絵がすごいのではなく、画家によるツールを巧みに使った圧倒的な物量と連続性によるものが、さらなる表現の可能性を広げたのだと思います。
前述の長谷川潔のように、ホックニーが初めてその道具を手にした時の心中は、期待に満ちたワクワクしたものだったのではないかと、できあがった絵を前に想像します。
ワクワクを連れてくる道具たち。
道具選びに注目してアートを見るのも面白いのではないでしょうか。
参考文献 (*)[・・・150点ほどの絵画を描いたとすれば、ドローイングはおよそ1500点。いや、それ以上かもしれない。(・・・)1点の絵画に半年以上かけることもあるが、ドローイングに3日以上費やしたことは一度もないし、大概は24時間で描いてしまう。]-『デイヴィッド・ホックニー展』(2023年7月)展覧会図録 P.196「デイヴィッド・ホックニー、ピエール・レスタニーとの対話 フランス・パリにて、1974年7月」から引用
text: tomiko mabuchi
コラムではメゾチント技法が取り上げられましたが、Walls Tokyoでご紹介するのは、銅版画技法の中でも最古といわれるエングレービング技法を独自に習得した門坂流の作品です。エングレービングは紙幣の印刷技術にも利用されている技法です。
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門坂 流
本コラムは、2024年8月2日付のニュースレターにて配信いたしました。
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