DIC川村記念美術館 外観
DIC川村記念美術館が3月末をもって休館に入りました。
今後、規模を縮小し都内に移転することが発表されていますが、佐倉の土地に現存した美術館は事実上の閉館となります。
ここでは1990年の開館当初から現在まで多くの人に親しまれてきた同館の魅力を振り返ってみたいと思います。
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川村記念美術館について回想するとき、それは旅の記憶と重なる。
作品の記憶だけでなく、美術館を訪れる前と後の、移動を伴う短い旅の記憶と共に浮かんでくるからだ。
都心から40キロメートル離れた千葉県北部に位置する佐倉市(東京駅から公共交通機関でおよそ1時間)を訪れるのに、宿泊は必要としないが、しかしどこかのついでにいける距離にある場所でもなく、目的地はピンポイントで美術館、そこだけである。
遠方の旅先で訪れる美術館とは違い、周辺を観光することもなく、目的地に行って帰るシンプルでストイックな往路の旅。
美術館に到着すると、山林と池がある開けた光景が広がる。季節ごとに移ろう庭園を散策したり、お弁当を持ってピクニックを楽しむこともできるので、なんなら美術館に入らなくてもよい気楽さが漂う。
それに、企画展に囚われることもない。館内には、ロスコやコーネルの作品のために一部屋が設けられていて、上質な作品を常時堪能することができるからだ。
照度を落とした「ロスコ・ルーム」では、聴覚が研ぎ澄まされる。部屋を出ると、すぐ左手にある大きな窓ガラスから覗く借景に毎回目を開かされる。つづく、上階のカラーフィールドの巨大な作品が飾られた部屋でもまた、ロスコルームと対比するような一面ガラス張りの空間に感覚が解かれる。
少しくたびれた帰路で、このような体験をいくつか思い出しては、「気持ちよかったな」「また行きたいな」と思う。「展覧会を見に行く」のではなく「川村という『場所』に行く」ことで、私と場所が関わりを持つ。さらに、経験を繰り返すことでつながりは強まっていく。その時限りのイベントや特設会場では生まれない感覚をもたらす。
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こうした個人的経験を、多くの人がおおむね同様の共通認識として持っているのではないでしょうか。それは、美術館のイデオロギー性[①作品の質の高さ ②コレクションの方向性に一貫性があること ③「場」のアイデンティティーを持っていること]が来館者に明確に伝わっているからだと考えます。
①作品の質の高さ:もともと美術に造詣の深いDIC株式会社 第二代社長(初代館長)・川村勝己氏がピカソやブラックら巨匠の名品を収集する一方で、モーリス・ルイスやフランク・ステラなどアメリカ現代絵画の収集をいち早く始める。さらに第三代社長・川村茂邦氏が戦後アメリカ美術に関心を寄せコレクションを充実させていく。ロスコルームのコレクションもこの頃。
②コレクションの方向性に一貫性がある:母体であるDIC株式会社は、印刷インキ、有機顔料、合成樹脂、電子情報材料などを手掛ける化学メーカー。「色彩と美に深く関わる」会社と自負し、明確なヴィジョンを持ってコレクションを進めてきた。
③場のアイデンティティー:川村では度々「場」がキーワードとして登場する。たとえば、美術館とDICの研究所は池を挟んで対峙する位置関係になっている。コレクションの要となる「カラー・フィールド・ペインティング」は「色/絵画の場」の意味であるし、2024年に「場としての彫刻」として知られるカール・アンドレの企画展が開催された。
「場」は川村記念美術館の立地場所のアイデンティティ、コレクションのアイデンティティ、そして展示におけるアイデンティティの象徴でもあるといえます。
閉館にあたって多くの惜しむ声が挙がったのは、コレクションの行く末を心配してのことだけではないのだろうと感じます。美術館を実際に訪れた人たちが、それぞれに特別な出会いと体験をした、愛着のある「場」が失われることに対して、悲しみを抱いたのでしょう。
コロナ禍で特に経験したことですが、「いい店」ほど、なくなってしまう。もっと頻繁に行っておけばよかった、と後悔することはよくあります。川村閉館の一報は、悲しみと憤慨と反省が入り交じるものでした。
最後に、コレクションの中心でもある「ロスコ・ルーム」にまつわるエピソードをご紹介します。ロスコは「場の問題」に重きをおいた画家です。移り変わりの激しい今日の世でロスコの姿勢から学ぶことは多いと感じます。
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マーク・ロスコ(1903−1970):ロシアのユダヤ人家庭に生まれる。1913年にアメリカに渡り、20歳で画家を志す。具象画、シュルレアリスム的表現を経て、抽象絵画を描くようになる。いくつもの色の矩形が浮び上がるような独自の様式を確立。
ロスコ・ルームに展示された「シーグラム壁画」は、もともとNYのシーグラムビルにオープンする「フォー・シーズンズ」の壁に飾るため依頼された作品でしたが、完成したレストランで食事をとった後、ロスコは憤慨し絵の引き渡しを拒みます。契約破棄の理由は、レストランの実情と自分の展示イメージとのギャップの大きさからのようですが、依頼を受けた時点で既にロスコには迷いがあり「いつでも抜けられるような契約内容」*1でもあったようです。
ロスコは自分の意図が鑑賞者に歪んだ形で伝わることを極度に恐れた画家で、展覧会前には具合が悪くなることもしばしば。照明法や、絵のかけ方(大きい作品は床に近く低くかけることを望んだ)にこだわり、展示空間をコントロールして「場を創り上げる」ことに関心を向けます。
画家の信念を伝える次のような書簡が残っています。
「・・私は自分の描いた絵がこの世にどのように生き長らえるかについて重い責任を感じるため、作品の生命と意味が確保されるような展示であればいかなるものでも喜んで受け入れ、それが期待できないものはすべて回避したいと考えます。・・」(1952年末 ホイットニー美術館館長に宛てた書簡*2 ロスコは美術館の作品購入を断ったとされる。)
さて、1958-59年にかけて制作したシーグラム壁画は3セットあり、壁画サイズのキャンバス作品はおよそ40点に及びました。さらにシリーズ外の単独の作品も描かれ、どれが壁画の一部か見極めるのは難しいと「マーク・ロスコ伝記」に記されています。
生前、第二、第三シリーズの壁画を売却することはありませんでしたが、1969年に9点をテート・ギャラリーに寄贈します。この寄贈にあたっての1965-69年のじつに5年に及ぶ交渉の過程は、ロスコという人物像を知るうえで興味深いです。
自分の絵は美術史の中で正当に取り扱われるべきであると考えていた画家が、美術館側の対応で軽んじられたと思った際に示した疑心暗鬼な反応、模型とミニチュア壁画を使って様々な配置を試す様子、他の作品と並べないように「専用の部屋」の必要性をうったえ、そして、作品の永遠の居場所を求めて「常設」展示にこだわり続けたこと、などがうかがえます。
1970年に画家が自死した後、シーグラム壁画は、川村記念美術館に7点、ワシントンナショナルギャラリーに13点が収蔵され、残りをロスコの子どもたちが所有しています。
参考:『マーク・ロスコ伝記』ジェイムズ・E.B.ブレズリン 木下哲夫訳 2019 株式会社ブックエンド
『ロスコ 芸術家のリアリティ』マーク・ロスコ クリストファー・ロスコ編 中林和雄訳 2009 みすず書房
*1 『マーク・ロスコ伝記』「13 シーグラム壁画」P437
*2 『マーク・ロスコ伝記』「11 正当な評価」P356
text:tomiko mabuchi
[関連作品のご紹介〕
今回、Walls Tokyoからは、川村記念美術のコレクション作家でもあるジョセフ・アルバースの作品をご紹介します。2023年には同館で「ジョセフ・アルバースの授業 色と素材の実験室」が開催されました。
ジョセフ・アルバース(1888-1976) ドイツ生まれ。当時ドイツにあった美術や建築などを総合的に教えたバウハウスで学んだ後、同校で教鞭を取る。バウハウスの閉鎖に伴い、アメリカへ移住。複数の正方形を規則正しく配置した、シンプルな抽象画で知られる。 また、アメリカでも美術教育は継続し、教え子にはロバート・ラウシェンバーグやサイ・トゥオンブリなどがいる。
Josef Albers「Formulation:Articulation #2441」 1972 シルクスクリーン
Josef Albers「Formulation:Articulation #2440 」1972 シルクスクリーン
本コラムは、2025年5月30日付のニュースレターにて配信いたしました。
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